第九話「サムデイ・イン・ザ・レイン」

ええっとぅ……、今回でぇ、最終回ですぅ……。ひぃぃ、怒らないでくださいぃ……。

 と終始口真似をしようかとおもったがいろいろと耐えられそうにないので放棄することにする。
 そういうわけで、めでたく第十四話が放映となったわけだが、錯時法を使ったものがたりで時系列上の最終場面を作中のラストにおかない事などは珍しいことではなく、むしろ、ありふれている、とすらいえるようなものなのだが、視聴者が登場人物に愛着をいだいていればこそ可能と判断されるような「平凡で何も起こらない一日」を本筋のものがたりがどうなったかもよくわからない、各キャラの本心もいまいちつかめない状況で垂れ流すこの勇気はなかなか素晴らしいものであると、その勇気、いや、蛮勇を賞賛しようという気持ちの存在を認めるのはやぶさかではない、と言ってもいいとは思うのであるのだが、肝腎のものがたりの内容――ことに演出方針に関しては、苦言を弄したいという気持ちでいっぱいであるというのが現在のところの正直な心理状況であることもまた否定できない事実なのであり、心境なのであった。

 ぶっちゃけていうと、つまらんのだ。頭から終わりまで、おっと思える場面も、くすりとできる場面も、「萌え〜」な場面も(そんなのはハナから存在しないという指摘は否定しない)、皆無、絶無、虚無、何でもいいがともかく無かった。ハルヒは相変わらずただの自己中のいじめっ子だし、古泉は事なかれ主義(いろいろな意味で)の追従しかしない、長門の本読みも何度もやって面白い類のネタでもないし。その上、その筋の人しかやらず存在も知らないカードゲームをやっている風景はかなりに痛い。せいぜいUNOにしておけばいいのに。物語化された「なにもない日常」とは、面白くない台詞と映像の羅列という意味ではないのである。いやもしかしたらどこかに面白ポイントが存在したのかもしれないが、視聴者が認識できる長さを下回る時間――即ち小数点第十位ぐらいでようやくゼロ以外の数字が出てくる秒数でしかなかったはずである。
 あるいは、原作単行本全巻を読破し、かつ数十度読み暗証できるレベルのファンならばそれと認識でき、爆笑、感涙、あるいは啓発されるような素晴らしいネタが存在した可能性は、これまた否定できるものではないが、それを持ち出されても困るのだ。これは他でもない俺の感想なのだから。

 そう。俺の語りで始まり俺の一人称、一視点のアニメのように見せて、俺が見ていないところ、預かり知らぬ場所の描写が全体の半分以上を占めるどこかのアニメみたいなことを、俺自身は出来ないのである。俺に出来るのはせいぜい

 長門が本を読んでいる
 長門がページをめくる
 長門が本を読んでいる
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これだけで何分か時間を稼ぐのは、ギャグとしてつまらないし、ドラマ的意味も見出せないし、ゲシュタルト崩壊の実験にもなってないからやめてくれ、ということぐらいである。

 ちなみにゲシュタルト崩壊というのは以下のようなことをすれば試すことができる。


長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門長門


 ほらだんだんナガトと読めなくなってきたと思われるが、どうだろう? 文字すらに見えなくなってきてもおかしくないのだが。っていうかなんか目がチカチカするなこれ。

 閑話休題
 といっても、もう語ることもさして残ってないのだが。
 気になったことといえば、寒い季節という設定なのにさっぱり寒そうに見えないところ。ちょうど長袖Tシャツ一枚でふらふらしている男と毛皮の襟を立てている男が並んでいる聖杯戦争アニメぐらい季節感がない。
 映画で言うなら、どう考えでもそこはスタジオ内だろうというセットのなかで屋外と言い張っている感じである。雪山なのに吐く息がまったく白くならない感じと言い替えてもいいだろう。

 しかし考えてみると、これはアニメなのでロケや、実際にスタジオを寒くしたり白い吐息をフィルムに合成したりする必要ないのである。

 つまり、要は見せ方の問題である、というわけなのだが、このスタッフの「演出」とはいかに奇を衒った見せ方をするかにすべての神経が注がれているようで、自然に作品世界を作り上げるということは、田舎の横断歩道の赤信号よろしく、眼中に入れてもらえないのであった。
 素人目で見ても、寒さというのは今回のエピソードにおいてそれなりに重要な要素であることは想像するに難くないのだが。まったくこのスタッフのすることはよくわからない。おそらくスタッフもわかってないのだろう。

 兎にも角にも、あまり寒そうに見えないから、キョンハルヒ(たち?)がカーディガンをかけるのが思いやりに見えないし、ハルヒの格好は異様に厚着に見える。っていうかそんなに寒いならあの状態で寝たら風邪を引くんじゃなかろうか?
 そしてラストの唐突ともいえるアカンベー、ノリとしては「おしまい。またどこかで」みたいな、終了と第二期への予兆のようなもので、ドラマ的にはハルヒキョンの微妙な関係性を端的に示す、シリーズ放映最終回の最終カットとしてはありがちな締めかたではあるが、残念ながらこれはシリーズ放映最終回でもないし最終カットでもないのだった。

 そういうわけでいろいろな意味で空回りの似非インタールードは終わり、ようやく次回は「憂鬱」のⅣ。例によって視聴者にとって一ヶ月の間があいていることなどは存在しないかのようなノリでやるに違いないと、今から先行的にちょっと憂鬱になってみるのだった。