第十五話「十二の試練」

なんと第十五話。まだというべきかもうというべきか……。
 それにしても、十五話目にしてようやく正しい見方がわかってきた気がする。
 今回は使いまわし満載OP画像でまず笑いを取ってくるスタッフの心意気に拍手することからはじまる。OPはラストの無理矢理王のマントを着せてみたら、無理矢理王のマントを着せられたように見えるセイバーも味わい深い。

 さて、話が始まると、多分誰もが、「のんびり休憩とっても平気なら森から抜けたほうがよくないか、これ?」と思うはずだが、これはいずれ戦うのだから、一般人に迷惑のかかる市街地でなく森で戦おうという、そういう「正義の味方」らしい配慮の産物である。原作どおりにしておけばとりあえず文句は出ないだろうという安直な判断のもと、原作どおりになっているというようなことではない。
ちなみに、凛が「さあ作戦会議よ」って言うところは、緊張感のある場面のさなかに一陣の涼風のようなさわやかな笑いを提供してくれた。ティーセットでも持ってきてれば完璧だったのに。

 そしてある意味最大の見所「魔力補給」。さんざん補給手段はないって言っておいて、いざ危機になったら当たり前のように方法があるという凛先生の二枚舌に士郎が無反応なのは、もちろん緊急時だから言ってもしょうがないと判断した結果にちがいない。士郎が馬鹿だから気づいてないとか、言われたことをもう忘れているとかそういうことでは断じてない。
 その魔力補給法はというと、原作のセックスではなく、オリジナルのなにやら抽象的な精神世界展開になるのは、このアニメのスタッフらしからぬ蛮行である。彼らの製作姿勢は、どきどきさせる目的のキスとかそういう意味のわからない原作準拠がモットーのはずだからだ。

 そのセイバーの精神世界にはセイバーの精神の具現化である存在がいるわけだが、それが竜の精神だから内なる自己も竜のかたちとはじつに意外である。裏の裏は表という奥深い計算がそこにはある。かりにその竜が、映画『スポーン』のCGマルボルギア様もはだしで逃げ出すショボさのCGでデザイン的に凡庸かつ不細工としか言いようのない代物であるのは、些細な問題である。
 精神世界への背景がスカスカなのももちろん意味がある。浦沢直樹の『モンスター』の「名前のない怪物」の世界へのオマージュか、王の孤独な心の表現である。竜といえばファンタジー、ファンタジーといえばなっちゃって荒野などという短絡な思考の産物などではない。
 なにはともあれ、士郎の腕を竜が食べることで、セイバーはあっさり回復する。説明を多用するこの作品は同時に肝腎なことはちゃんと説明してくれないという、視聴者のレベルを非常に高く見たスタイルを誇っているが、その特性はここでも発揮されている。移植っていってもそれは接続のためだから、ただ食われちゃあ駄目だろうとか、そういう疑問への回答は、視聴者が自分で出すことが求められている。物語としてはあくまでさらりと、である。
 大体、ここを濃密に描いたらほかの場面も濃密に描かないといけなくなってしまうではないか。

 物語は再び対バーサーカーへと向かう。
 剣の達人は相変わらず真正面から打ち合う。これぞ武士道である。アーサー王は戦略家でもあったわけだがこの世界のアーサー王にはそういう属性はないので問題なしである。そもそも、これは囮作戦なので馬鹿みたいに見えなければいけないのだ。ダメージをあたえるのは全部凛の役割であり、セイバーは疵一つ与えないのが正しい援護なのだ。役割分担は何事にも大切である。
 士郎にしてもせっかく弓を作ったのに(木を素材であるにもかかわらず弦まで張られた金属っぽい洋弓が出てくる原理はさすがに解らない)、単純に考えて弱そうなイリヤを狙わず、敢えてバーサーカーを狙うのもまた、これが凛のための作戦であるからに他ならない。バーサーカーを狙うにしても目などの脆そうなところを狙ったりは当然しない。設定上彼は弓は達者であり、しかもこの時点ではバーサーカーには神秘ランクAでなければ攻撃できないなどというRPGみたいな設定は開陳されてないのだから、そういった工夫を凝らした攻撃をすることは可能なのだけど、ここはやはり凛に全てが任されているのだから、そうしないのは当然のことなのだ。考えてみると、当の凛こそが、人間ではサーヴァントには勝てないといった張本人だったりするわけだが、士郎の辞書に学習の文字はない。今この瞬間の仲間の力を、鰯の頭の御利益を信じるように信じるのは、これまた当然のことである。
 なお横移動主体のもっさりとしたカメラワークは格ゲーへのオマージュである。
 
 かくして戦いはクライマックス。作戦は破綻し、凛はバーサーカーに腰をにぎにぎされ、次回に続く。さながらAパートからBパートへのつなぎを思わせる、実に緊迫感のある展開で、熱心でない視聴者を熱心に振り落とすスタッフの心意気をも感じる素晴らしい終わりかたであった。