スティーヴン・スピルバーグ『ミュンヘン』

威風堂々の大作。スピルバーグの作品史的には『アミスタッド』の流れにある、といったらいいのか、シリアスな題材をシリアスに扱いながら一般的なエンターテインメントとしても成立している、という重厚で陰鬱でなおかつ軽妙でもある近代史(といっても、史実に即さない要素も多い)大作映画である――というと、映画ファンならばデヴィッド・リーンの『アラビアのロレンス』あたりを連想したりする向きもあると思うのだが、単なる表層的な類似ではなく、国家と人間の相克というモチーフ的な面でも似通ったところもあり、あるいは偶然ではないのかもしれない(スピルバーグの『アラビアのロレンス』好きは有名である)。

その『アミスタッド』や『アラビアのロレンス』がそうであったように、本作もまた史実に材をとりながら、同時に作家の個人的な興味や主題をひたすら追求する作品でもある。その寓話性の強さという意味では、前述の作品群の様な歴史に材を採った物語よりも、『ゴッドファーザー』や『スター・ウォーズ』といった、より直截に現代の神話たることを志向する作品に近い、とすら言えるだろう。ここで描かれるのは確かに歴史的な悲劇である。同時にここで描かれるのは、神話的な悲劇でもあるのだ。

映画史に残る大作を引きあいに出しすぎている? いや、そんなことはない。見合った作品を選ぶと、そうなるというだけのことである。今後、スピルバーグの一作といったら、『シンドラーのリスト』でなく『未知との遭遇』でなく、もちろん『プライベート・ライアン』でなく『ET』ですらなく、『ミュンヘン』になるだろう。とはいえ、これはあまりに重く激しく暗く厳しい物語であり、はっきりいって観るとどっと疲れるので、愛着という点では『宇宙戦争』『A・I』のほうを上におきたいような気もする。だが、それはまた別の話。劇場では映画が終わっても席を立たず、そのまま続けてもう一度見てしまっても全然後悔しなかった。それぐらいの傑作である。

 なんといってもトニー・クシュナーのシナリオが素晴らしい。 
 すでに事前に出ている情報の通り、テロの惨劇と、その復讐の悲惨をえがいた物語なのだけど、そこはあの名作『エンジェルズ・イン・アメリカ』の作者である。単なるお涙頂戴にも、ただ無常観だけが支配するような構造にはせず、どこまでも視聴者の理性を刺激するプロットと台詞を用意してみせた。そちら方面はもう見事しかいいようがない。観終わって、ぴたりと割り切れる気持ちに決してさせない、というのは、つまりそれだけ情報と感情の提示の配分がいいということである。暗殺という名の復讐が進行していくに従って、主人公達のあいだに満ちていく淀んだ空気の醸成もすばらしい(残虐と諧謔が最悪の形で同居するホテルでの爆殺作戦の件は特に秀逸で、スピルバーグの本領発揮である)が、物語的には、中盤のアラブ系の工作員との対話が利いていて、重要という言葉はこの場面の為にあるといってもいい。

 この対話の場面で語られるアラブ側の言い分は、例えば、ジョン・ル・カレが『リトル・ドラマー・ガール』において、イスラエル建国時に「民なき土地に土地なき民を」のスローガンのもとで行われたイスラム人への迫害の情景を描いたのを連想させるが――千九百八十三年刊行の同著から二十年以上たっても今だ有効という事実には暗澹たる思いにさせられるが――、この一見ベタな「顔のある敵との出会い」が物語を単なる一方的な復讐譚としてみることを強烈に否定する。

このくだりは、国家とテロを巡る大きな主題を浮かび上がらせるだけでなく、スピルバーグの個人的な主題のためにも欠くべからず場面であり、キーワードは「home」である(字幕では翻訳の都合上、祖国、家庭、等いくつかの単語があてられているが、nationを使ってからさらにhomeに言い変えている場面もあるほどに、これは重要な単語なのだ)。アヴナーが逢ったテロリストたちはなんのために戦っているのか? 政治のためか? 国家のためか? 復讐のためか? すべて違う。かれらは「家」のために戦っているのだ。全ては「Home」に戻るための旅路なのである。そして、意外にも、というか、当然にも、というべきか、この部分は「原作」には存在しない。これはあくまで「スピルバーグとクシュナーの『ミュンヘン』なのだ。
 
 テロリストたちと同じく、アブナーもまた復讐の沃野にありながら、つねに「家」に帰ることを考える。何度かある料理のシーンは、せめてもの「家庭」の再現である(作れば作るだけその場が「家庭」に近づく……気がするに違いない。だから彼が非日常に染まれば染まるほど、作る料理が増えていくのである)。その、露骨にコッポラ的というかイタリア・マフィアみたいな「パパ」の屋敷の一族(そう、ファミリーである)の描写もまた、アブナーをむしろ精神的に追い詰めているわけである。それは彼がもっとも求め、かつ、いまもっとも思い出してはならない世界なのだから。(一応付け加えておくと、この「パパ」の描写も原作とは大きく異なっている。原作における「パパ」はあのようにイタリア・マフィアみたいな存在ではない)

 そして残酷なことに、ある意味、彼は最後まで帰れないのである。あるいは「パパ」の断言が、小さな救いになったのかもしれない。しかしテロと報復への恐怖はつねに心の片隅にあり、そこは夢見た「家庭」ではないのだ。
 そう、これはもう何作目になるのかわからない、スピルバーグによる『ピーターパン』の再話であり、すなわち、失われた「Home」を巡る物語なのだ。「えっ?」と思う人は、一度ピーターパンをちゃんと読んでみるといい。あれは「外に遊びに出て、帰るべき家を無くしてしまった子供」の物語なのだ。『激突』以来『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』『宇宙戦争』まで(『ターミナル』もそれらしいが観ていないのでコメントは控える)、このシチュエーションが果たして何度繰り返されているだろうか。そういえば直接的にピーター・パンをモチーフにした不気味映画『フック』というのもあった。今回もまたその流れにあるのである。そして、今回もまたピーターパンの生家の窓は閉じられたままなのだ。

 エピソード単位では、オランダ人の殺し屋のエピソード(猫のくだり)は、一部の人間には凄く強力で、その気持ちは非常によくわかる、と言いたい。
 キャラクターとしてはキーラン・ハインズのカールがその死に方も含めて印象的である。新ボンドは、この映画では適役だけれども、あまりボンドっぽくない気がする。

 と、圧倒的にすばらしい作品なのだけど、欠点もないわけではない。いつものことながら、人間にあまり興味ない感じがするのは映画的には原典かも知れない(それが主題とかかわりある部分ではあるのだが……)。ヤヌス・カミンスキーによる冷ややかな映像美とあいまって、全体としてはやや無機的な印象があって、その辺がスピルバーグがリーンやコッポラと並べて語られにくいところかなという気はする。しかし、この突き放した空気感もまた個性ではあるだろう。すくなくても人類なら一度は観なくてはいけない傑作であることには確かである。