第八話「黒の騎士団」

さて、ここに来て完全にお笑いアニメになってしまった。しかしこちらの笑いは、どちらかというと失笑とか苦笑の類である。

全てがお笑いだったわけではない。正直なところ、前半は結構いい雰囲気だったと思う。

複数のテロリストがそれぞれの思惑で行動した結果の事件、いささか強引ながら、生徒会やユーフェミアを人質に加えることで、問題をゼロにとっても、視聴者にとっても身近にしたうえで、ゼロにとってのテロとはなにか、というのを提示する、というプロットは悪くなかった。
それは同時に、ゼロ対ブリタニアというのを物語の前面に押し出す役割も果たし、さらには複数あるテロリストチームもきちんと描き分けられ、コーネリアの性格描写もさらに推し進められて、シリーズ全体像の見通しがとてもよくなる……ような気がしたのだ。

ルルーシュ君が正義の味方とか言い出すまでは。

これがバットマンやⅤ、あるいは、それこそキラといった人物が言ったならば、実像と発言とのギャップ(あるいは一致点)から、その言葉の奥にある真意が垣間見えて、表層の安易さにとらわれない台詞になるのだろうが、ゼロ/ルルーシュ君はここまでたいしたことをしてないし、その行動原理もはっきり見えない御仁なので、アイロニーのつもりで言っているのか、ただの馬鹿なのか、にわかに判別しがたいから、不可避的に「せいぎのみかた」という言葉の素晴らしい響きだけがまず一人歩きしてしまう。その結果、思わず笑ってしまうわけである。

さらにクライマックスの演説になると、これはもうアイロニーとかそういうレベルでなく、本当にただの馬鹿である――スタッフも込みで。

黒の騎士団が、自分らの格好がお笑いであることを本人たちが認識していないだけでなく、そのことを客観的に示す演出もないということは、作中ではあの格好が「お笑いでない」と認識されているということを意味している。つまり、コードギアスワールドは視聴者のいる世界とは美意識が根底から異なるトンデモ空間であるということになってしまうのだ。それはたとえば、一人でテニスをやるのは得意じゃないからと、分身して二人になって戦ったり、腕から目に見えるオーラが立ち昇ったりすることが、超常現象として認識されないテニス漫画みたいなものである。

当たり前のことながらそういう世界を舞台にしてしまったら、弱者と強者とか支配被支配、人種対立といった重いテーマはなんの説得力も持たなくなってしまう。

もしそのあたりを全て承知で、今回のようなエピソードを描いたのだとしたら、なかなか勇気あることといえるだろう。すごく無謀なことともいえるけど。

それにしても、格好が馬鹿っぽいだけでなくやることも馬鹿っぽいのは何とかならないのか。特に、かっこつけているくせに、やっていることは正面からのこのこ出向いて「入れろ!」なのには参った。おまえはジャイアンか。
テロリストを相手にしたときも、懐柔するには口下手すぎで、最初から殺す気にしては余計なことをしすぎ、とキレというものがさっぱりない。ルルーシュ君はチェスの本より『Ⅴフォーヴェンデッタ』か『ダークナイトリターンズ』でも読みましょう。

終盤、ナナリーがゼロの正体に気づいたことをちょっとした仕草で示すくだりはよかった。「眼に惑わされない」ものは無敵である。