第四話「その名はゼロ」

サブタイを頭が勝手にその名は101(ワンゼロワン)とか変換してしまったが、それはともかく。

キラならぬゼロの登場。
これが予想以上に寒い、というか笑っちゃうぐらいかっこ悪い――製作者がギャグとしてやっているのかとかんぐってしまうぐらいダサいのだが、その仮面をかぶった状態がなんとなく、手塚治虫のゼロマンかなにかに出てきたキャラに似ている気がしたりしたのは気のせいとしても、仮面の革命家というと、ほらあれだ、「V」という大先輩がいるわけで、しかしもちろん、ああいう馬鹿っぽさとかっこよさを噛み分けた怪人キャラは望むべくもないのだった。だって本人は完全にかっこいいつもりでやっているって設定なのだから。笑わせる者と笑われる者の違いは大きい。

しかしそのセンス以上に、ライトじゃないルルーシュのキャラは微妙。
今回の作戦からしても自分で思っているほど賢くない(ボスが「全力で見逃せ」といってもその指令が部下に完全にいきわたるとは限らない、という可能性を見逃すのはアホだ。実際ぎりぎりだったわけだし)のはいいとしても、行動原理が歪んだ復讐鬼とピュアな自由主義者と退屈したニヒリストのつぎはぎで、それが一人の人間の多面性というよりは、ただのキャラの不統一にしかみえてこない――その場その場で脚本家の都合のいいキャラを引っ張り出されているようである――のはまずい。人間、出力は多様であっても根本はそう変わらないものである。一見矛盾しているような言動でも不自然でない、というのはつまりそれは本質的なところでは矛盾していない、すなわち、深層に同じ論理が垣間見えるということなのだ。
この作品の場合、ルルーシュと完全な理想主義者であるスザクとの対立がドラマの核心にあるわけだから、ゼロ=ルルーシュのパーソナリティが明確に見えていないと、どの点で対立しているのかが曖昧になってしまう。それはつまりドラマの核が曖昧になってしまうということに通じるだろう。

ところでアバンタイトルで、ルルーシュの動機について「このときは」という風に限定していたということは、これから大きな変化があって、闘う理由が変わるということなのだろうか。CLAMPつながりで、つい妹が死ぬのか、とか思ってしまうわけだが……。