先週の日曜日に自転車でひとっ走りして、吉祥寺プラザで見てきたわけですが(さすがに初日は行きたくなかった)、率直に言って微妙どころの出来ではないですね。
 すでに公開前からかなりの悪評ぶりで、弱い者いじめみたいになっているので、いいところも探そうという気になっていたのですが、しかしこれはもうどうしようもない。
 さて、この作品をみる場合、基準点は複数あったと思いますが、ここはとりあえず

1 アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記』のアニメ化として見る。
2 スタジオジブリの新作として見る。
3 新人監督の第一作として見る。

の三つに絞っておきましょう。とりあえず偏見とか予断といわれない見方はこれぐらいでしょう。
 で、このどの基準で見ても、及第点に達していないのがいかにもまずいです。

 まず、1の観点でいうと、この作品は原作のいくつかのエピソードとつぎはぎしただけののお粗末なもので、たとえば原作3巻における危機的シチュエーション(世界の均衡の崩壊)を使っておきながら、その顛末を全然描いていないという信じがたい作劇センスをしています。
 簡単にいうと、映画では、世界の危機は全然終わっていないように見えるのです。確かに、原作ではその事件の黒幕だった人物が登場し、いかにも悪役といった活躍をしますが、その人物が映画の世界のバランスを崩した犯人のようには見えません。この人物の行動と世界の危機に関連があるような台詞はいくつかありますが、実際のところどうだったのかはまったくわかりません。せいぜい「世界の均衡を破壊しようという計画を立てていた」程度のものです。
 作中で描かれたことといえば、その人物とゲドの対立はアレンやテナーの誘拐を巡るとても小さなレベルの戦いでしかなく、世界の命運を巡る闘争ではないのです。

 と、ここまで書けば、原作既読の人ならばピンとくるかもしれません。事前にアナウンスされていた原作3巻を元にしている、というのはほとんど嘘です。前述の通り、世界の状況の類似と登場人物が数人重なるというだけで、実際は原作4巻『帰還』のアニメ化なのです。それも『帰還』のテーマをほぼ完全に排除したかたちでの。
 これは、『帰還』におけるゲドの状態――ネタバレになるので詳細は秘しますが、この時店でのゲドは魔法で戦うことはしません――を作品が反映してないので、当然のことです。

 この作品における『ゲド戦記』が果たした役割というのは素材の提供程度の意味しかないのです。それはもしかしたら原案としてクレジットされている『シュナの旅』よりも扱いが低いかもしれません。

 では、原作はあくまで素材である、一種オリジナルに近い作品としてみた場合どうかというと、これがまた微妙なのです。

 それは、タイトルロールであるハイタカがそのゲドという名を呼ばれるのは一回だけ、それもなんの重みも感じられない場面であるという、ありえない構成感覚なんかに端的に現れています。
 作り手的には、テナーがハイタカの真の名を知っているということで、二人の関係性を描いたつもりなのかもしれませんが、そもそも真の名を知ることの重要性をきちんと描いていないので、何の効果もあげていません。原作を解体しているにも関わらず、原作の知識だけは要求しているわけです。それはテナーの語る過去やほぼ何の説明もない『ローグ』という単語、あるいはテルーの秘密にからむ伏線、についても同じことが言えます。
 また『帰還』のプロット(だけ)を採用したことで、ゲドが「原作通り」の――魔法を使わない――行動しかできなくなり、それが後半の彼の間抜けとしか見えない一連の行動につながっていくのは、ちょっと信じられない計算違いといえましょう。

 さらに、映画完全オリジナルである冒頭の王殺しが、ストーリー進行において不必要でしかない重さで全編を圧迫しています。作り手は結局なぜアレンがあのような行動に出たのかを説明し切れてないですし、結末部もそのさわやかな印象とは裏腹にまったく絶望的です。王殺し、父殺しの罪はごめんなさいでは決して済まないでしょう。
 仮に、主題面で作者の必然(父親宮崎駿越え)を示したかったのだとすると、一人よがりもいいところでしょう。影の追っ手や世界の崩壊といった物語のほかの部分と有機的に結びついていないですから(*1)

 ともかく突っ込みどころが多すぎます。すでに書いたように、冒頭から大きく提示した、竜の発狂と世界の均衡崩壊の謎がまったく解かれないで終わるあたりになると、崩壊しているのは世界でなくて、映画制作の管理体制なんじゃないかとすら思えてきます。ほぼ完全に素人である監督はともかく、共同脚本の人は何をしていたのでしょうか。

 作品の世界観もまた、ル=グウィンの描いたアースシー世界と宮崎駿の描いたシュナの旅の世界の折衷なのですが、ただ混ぜ合わせただけで、考え抜かれていません。
 人買いや人攫いが跳梁跋扈する世界でろくに自衛手段をもたない女二人の暮しの生活が成立するでしょうか? 実際作中でも、何にも考えずに町をうろついていたテルーが襲われているのです。そういう町ってわかっているはずなんだから、行くなよと思うわけですが、そうしないとアレンとテナーに接点が出来ないからそうしたというふうにしかみえません。
 大体あのシーンはアレンが助けてなかったら、テルーは大変なことになっていたはずで、あの町の状況からしてそれは想定の範囲内なのだから、テナーが縁日で迷子になった子供を探すようなのんきさで構えていられること自体がおかしい。

 さて、物語として出なくアニメ作品としてみても(すなわち2の観点)これは微妙です。 
 冒頭の荒海にもまれる船を捉えたショットの力のない画面構成と、カルピス名作劇場の出来のわるい回のような船の作画を目にした時点で、おそらくかなりの人が気付くと思います――これはいままでのジブリ作品ではないぞ、と。それもマイナスの方向で。これが、素人目にもわかってしまうのは、ある意味凄いことかもしれません。
 その後も狼に襲われるアレンのエピソードのしょぼさや、ただ歩いているだけ、ただ作業をしているだけ、というように、コマにおけるドラマ的意味合いが貧弱な場面が多くて、みていてかなり暇です。
 なんにせよ、技術とは、それを統括する才能があって初めて真価が発揮されるもの、ということをよく教えてくれる貴重な作品でもあります。

 最後の3の観点ですが、これまでに述べたように作品全体としてはほぼ壊滅なので、明らかに「落第」のできなのですが、まったく駄目、というわけでもないかもしれません。

 すくなくても、丘で歌っているテルーをアレンが見とれるくだり、あそこはすくなくても「映画」の空気が流れていたと思います。カメラがちゃんとボーイミ―ツガールの気持ちを代弁してました。
 もっとも歌が長すぎでだれてしまうので、シーンとしてはやっぱり落第かもしれません。

 あと宮崎駿ナウシカを最後にずっと封印していた性的な含意のある台詞や場面を、直球で入れたところもそれなりに新しい風(あるいは再生?)といえるでしょうか。ウサギは明らかにレイプを示唆する台詞を吐きますし、アレンの「若い力」を象徴するのは「鞘からまだ抜けていない剣」で、そしてそれをアレンの元に届け、アレンにその鞘を抜かせるのはテルーです(鞘のデザインもあるいはそういう意味合いが込めてあるような気がします)。
 女奴隷を売る商人にヒヒ親父が群がっているショットも同類の性的な意味合いを含む場面ですが、ここはシュナからの直接の引用で、もちろんその選択自体に個性が発揮されているとはいえ、ここはその引用がもつ意味合いよりも、シュナと違い奴隷商人に天誅が下されないまま終わる後味の悪さを指摘しておきましょう(宮崎駿はなんだかかんだでそういうあたりのバランス感覚はあって、カタルシスを無視することはまずないので)。宮崎吾朗は単に素人でコントロールが出来てないというだけでなく、あるいは娯楽映画には向かないタイプなのかもしれません。


 心配だった非声優によるキャストですが、これは意外なぐらいまともでした。菅原文太ゲドは広島のやくざもチンピラ運送業者にも朝日ソーラーのおじさんにもなってなかったし、田中裕子はエボシ御前のときとは見違えるよう。香川照之は、普通にというか、初声優としては異常にというか、なんの違和感もない声優っぷりで、彼のやったウサギというキャラクターのつまらなさが凄くもったいないぐらいです(徹底して生き汚いチンピラにも、憎めない三枚目にもなれてない)。V6岡田も感情を高ぶらせるところと長ったらしいテーマを語るパートを除けば充分聴けます。手蔦葵も、長いテーマ語りのところはどうしようもないですが、日常の台詞はかなりいいです。無論、かなり素人臭いのですが、ちょうどゼーガペインのリョウコみたいな感じで、素朴さが味になっています。

 音楽に関してはサントラで耳なじんでいるせいも有るが、これは問題無し。本館のサントラについての記事で書いたように、寺嶋民哉の作品としては最上ではない(*2)にしても、この崩壊寸前の作品を上手くまとめていたと思う。
 エンディングの『時の歌』は、テルーの声に聴きなれた上で聴いたら、印象がよりよくなりました。「テルーの歌」としては『テルーの唄』より、相応しいかもしれない。


 ともかくも、これから見ようとする方には原作既読ならば『これより先すべての望みを捨てよ』との言葉を捧げます。そうすれば少なくても腹はたたないでしょう。

 原作未読の方は、前も書いたように、まず原作読んでから行きましょう。予想通り、原作のクライマックスが非常に駄目なかたちで引用されていたので。先にあれをみてしまうのはかなりの不幸です。

 すでにアニメを見てしまっていて、原作未読の人には、原作はまったくああいう話ではない、という言葉しかないです。とりあえず竜に起きた異変の真相は原作を読めば理解できるでしょう。

 (*1)どうせ、私小説風に構成するなら、王殺しの動機を「奸臣にそそのかされて」にすればよかったのに。
 (*2)本館で書いたように、寺嶋の最高作は『KEY THE METAL IDOL』の2枚目のサントラだと思う。